空と涅槃

大乗仏教の方(仮にAさんとします)と議論をしました。

 

私「もし全てを空と見るならば実況中継しかないでしょう」

Aさん「実況中継自体は尋・伺(ヴィタカ・ヴィチャーラ)なので、空とは言えないようにも思います。
実況中継的ヴィパッサナーは、まさに三界側の話という気がします」


私「たしかに涅槃まではいかないですね。しかし涅槃を経験して世間に戻れば最早、無意識に実況中継的になると思いますよ」

 

Aさん「私の勝手な解釈ですが、その実況中継をしているのが方便の仏である如来と思います。
涅槃の方が仏ですね。
仏のこの世の在り方は、そのように実況中継される衆生と実況中継する如来の2つとなり、この2つは本当には一体です。

と、大乗仏教的に言うと、このようになるかと思います」


私「おっしゃる通りです。何が起こっても只、それだけの事で心は主観的には何も反応しないでしょう。
主観がないので煩悩もなくて表情には微笑みがあり、曇りなく晴れた空のような気持ちなんでしょうね(^^)」

 

Bさん「実況中継する眼、観照する眼は主客を完全に無くしたものではなく、最後の消えつつある主観であって、
この眼そのものを観ようとして眼の後ろに回り込もうとした時、突然ひらけるものがあります」

 

私「それが涅槃でしょうね」

ラベリングについて

我々が自分の心の色眼鏡で物事を見ているという事はよく言われている事です。
ですから私と他の方ですと意見が違う事もあります。
その色眼鏡を取り外して在るがままを見ようと鍛練するのが瞑想の役割です。
それは業や環境といったもので構成された色眼鏡を取り除いた虚飾性のない心です。
私と他者の意見が違う。
しかしお互いが自分の意見を本当の世界、心だと思っている。
ではお互いの思っている色眼鏡を外してみた、本当にお互いの共通した虚飾性や妄想のないベーシックな心とは何なのでしょう。
初歩の瞑想でなぜラベリングするのか?
花を見て美しいと思う私の心は、私という人間の業や環境で作り出されたイメージです。
虫が花を見れば美味しそうと思っているかも知れない。
それは虫の業からきている。
しかし当の花からすれば美しいも美味しそうとも思っていないでしょう。
しかし私は私のイメージで美しいとか花だとか認識している。
虫は虫のイメージで花を美味しそうとか餌だとか認識している。
私と虫のお互いが本当の心だと認識しているイメージという色眼鏡を取り外してみましょう。
「見た」とラベリングするだけです。私のイメージを外すと、それだけなんです。
虫に共通していえるのも、それだけです。
虫も花を見ていますから、見たのは間違いありません。
つまり私と虫がお互いのイメージという色眼鏡を外した心とは「見た」という心しかないのです。
虫は瞑想できませんから自分の主観から離れる事はありません。
ですから食う食われるだけの心で永久に畜生道で輪廻し続けるのかも知れません。
しかし私は人間ですから瞑想により「見た」という真実のみの心を知ることができます。
この鍛練を続けるのが瞑想です。
鍛練が進むにつれ現象は現象でしかなく、私の持つ意見などは只のイメージでしかないと瞬間、瞬間の生でわかるようになってくるのです。
すると現象に対して持つ意味という妄想に囚われなくなってきます。