空と涅槃

大乗仏教の方(仮にAさんとします)と議論をしました。

 

私「もし全てを空と見るならば実況中継しかないでしょう」

Aさん「実況中継自体は尋・伺(ヴィタカ・ヴィチャーラ)なので、空とは言えないようにも思います。
実況中継的ヴィパッサナーは、まさに三界側の話という気がします」


私「たしかに涅槃まではいかないですね。しかし涅槃を経験して世間に戻れば最早、無意識に実況中継的になると思いますよ」

 

Aさん「私の勝手な解釈ですが、その実況中継をしているのが方便の仏である如来と思います。
涅槃の方が仏ですね。
仏のこの世の在り方は、そのように実況中継される衆生と実況中継する如来の2つとなり、この2つは本当には一体です。

と、大乗仏教的に言うと、このようになるかと思います」


私「おっしゃる通りです。何が起こっても只、それだけの事で心は主観的には何も反応しないでしょう。
主観がないので煩悩もなくて表情には微笑みがあり、曇りなく晴れた空のような気持ちなんでしょうね(^^)」

 

Bさん「実況中継する眼、観照する眼は主客を完全に無くしたものではなく、最後の消えつつある主観であって、
この眼そのものを観ようとして眼の後ろに回り込もうとした時、突然ひらけるものがあります」

 

私「それが涅槃でしょうね」